桂岩寺のご紹介

桂岩寺 沿革

当寺は曹洞宗、山号は天祥山、寺号は桂岩寺と申します、または五百羅漢とも呼ばれています。
桂岩寺は寛永十九年(1642)金沢市下傳馬町地子地に開基・桂岩泰嬾和尚の発願に依って創建されました。
御開山は大乗寺二十世・開禅寺七世覺室麟等禅師です。

享保十四年(1729)金沢の大火の際に類焼したため、現在の寺町に再建致しました。その時の住職は三世中興大江慈舟和尚でありました。

文化六年(1809)三月、五百羅漢開基・海運天麟和尚が五百羅漢像安置の発願を起こし、檀信徒を始め、多くの方々のおかげで、華厳の釈迦尊、十六大羅漢、五百大羅漢180躰の尊像まで奉安することが出来ましたが、文化十一年(1814)不慮の危難に依り泉野の刑場において露と消えたりと伝えられています。

天麟和尚辞世の句に
『汚れたる 身をば 枯野に
   脱ぎ捨てて 亦も宿らん
            菅原の宿』

天麟和尚は羅漢様を安置するために京都へよく上られ、その際に途中大津付近にて追い剥ぎに遭い、寄進頂いた浄財を差し出すように言われたが、浄財がほしければ和尚の首をとれと言って相対したという、そしてその追い剥ぎたちに京都から作り終えた羅漢像を1躰出して、羅漢様の前で追い剥ぎたちの家族の為に焼香して拝むとよいと伝えたという逸話が残っています。

文化十二年(1815)天麟和尚の師兄・二十世圓戒和尚、逆縁ながら相続を許され、法燈を守り、羅漢安置の大願を相続したが、老齢ゆえに文政六年(1823)五月に圓戒和尚は羅漢尊者170躰の寄進をされて遷化されました。

そして二十一世爛牛和尚もまた、天麟和尚・圓戒和尚の遺業を相続し、東奔西走され、150躰の羅漢尊者並びに十大尊者、賓頭盧尊者を安置され、文政八年(1825)三月十八日より二十八日まで十日間、寶圓寺玉岡老大師を拝請し、開眼供養を厳修したと伝えられています。

天麟和尚発願の日より、約18年をかけて天麟和尚・圓戒和尚・爛牛和尚の三代に渡り、五百羅漢を安置することが出来ました。

明治十九年、別棟であった羅漢堂が老朽化のため、檀徒・笹屋(笹島)様が自らの土蔵三戸を壊して、材料にして本堂を補修して、二階を創設して羅漢尊者の安置の場を創られました。

歌人・後藤雪袋氏が桂岩寺に一句残しています
『故々に焚く 柴の煙か 月の隈』
後藤雪袋氏は桂岩寺に埋葬されています、法名釈雪袋。桂岩寺で過ごされながら歌人として活躍されておられました。

昭和三十七年四月二十九日午前九時三十分頃、子供の火遊びの為桂岩寺本堂が火災に遭い、本尊・華厳釈迦牟尼仏、五百羅漢3体、賓頭盧尊者像を残し全焼することとなりました。
四月三十日午前十時より現場検証
終わって、午後より寺町町内の方々
五月一日檀信徒、寺町町内の方々
五月二日金沢市曹洞宗の御寺院方
五月三日寺町、長良町婦人会の方々、法島町の方々
多くの皆様の協力を頂き内外の整備をし、庫裡を改造し仮の本堂を設け、本尊様を仮に安座することが出来ました、被災に遭い姿形が分からなくなった羅漢様を御棺十五個に納めて、その羅漢様も仮の本堂に安置しました。

五月二十日檀信徒会議を開き、燃えてしまった羅漢様の供養法要を決めました。

五月二十七日 午後六時
法要場所・桂岩寺旧本堂跡
法要名・五百大阿羅漢荼毘式逮夜
大導師 開禅大方丈 親修
法要差定 羅漢拝 歎佛会 万燈供養 挨拶 堂頭

五月二十八日 午前十時
法要場所・犀川桜橋下川原
法要名・五百大阿羅漢荼毘式並びに火葬
大導師 寶圓大方丈 親修
法要差定
手磬三通 十佛名中 導師上殿
鼓鉢三通 炬火仏事
拈香法語 念誦 
十佛名中 導師遺形点火
観音経 回向 鼓鉢三通  散堂

昭和三十七年九月より京都市下京区高辻通り富小路、京仏師吉岡定雲様に五百羅漢の復興を依頼しました。

昭和四十一年十一月一日に本尊を入仏し、五日、総持寺副貫主岩本勝俊老師を大導師に拝請し、本堂再建・本尊入佛式を厳修しました。

昭和六十二年十一月一日総持寺貫主梅田信隆猊下を大導師に拝請し十大尊者、十六大羅漢、五百大羅漢の完成奉讃大法要を厳修しました。

平成二十四年四月二十九日元総持寺貫主板橋興宗禅師を大導師に拝請し復興五十年記念法要を厳修しました。